2012年5月22日 (火)

気と呼吸の価値

 気は生命エネルギーそのもの。それを自在に操れる人は極めて少ない。
 高度な科学技術も医療技術といえども習えば誰にもできる。勿論、習得には多少の時間が掛かることはある。
 しかし、気の技術は習ったところで誰にもできるものではない。我が子にすら伝達できない。それだからこそ並々ならぬ価値がある。

 道場では気のエネルギーを気タッチなど他者との交流で味わえる。気を受けて、気で飛んだ人はみな心地よく笑顔になる。それは美味しいものを食べて笑顔になるのと同じ仕組み。
 根源的なエネルギーは健康回復や身体能力発揮のベースになる。赤ちゃんは呼吸、お乳を吸う、眠る、手足をバタつかせる、排せつすることしか行わない。これらが根源的なエネルギーの循環をまかなう。

  気のエネルギーを支えるのが緩めと呼吸法。こんな簡単なことであれほどの威力を有する気のエネルギーが出せるようになるとは思えない。だから誰もができるようにはならない。西野流呼吸法の道場でも、気を自在に操れるレベルに達した人は何万の塾生の中でわずか数名であろう。 

 しかし、西野先生が何かを隠しているわけではない。隠していたらできるようになる人はいない。つまり習っただけではできない。努力は当然に必要だが、さらに運がなくてはできない。私は呼吸法の稽古を一度たりとも休んだことはない。西野先生は5年間1日も休んでいないこと考えると、週に3度ほどの稽古を休まないくらいではまだ足りないと思った。それでさらに10年は頑張ろうと考えていた。
 

 気を捉えられた今、習得のプロセスを振り返れば努力は当然として、運の良さが必要なことは間違いない。運とは、頭で考えて導けるものではない。運は損得計算とはまったく無縁のものであるから。

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2012年5月18日 (金)

Fundamental な力

 呼吸ができる、食べ物が美味しい、よく眠れる、自由に動ける、優しい心で居られる・・・これらのFundamental な力が日常生活を支えている。

 これらの力の有難味は病気でもしてみないと分かりにくい。肺ガン、胃がん、不眠症、手足のケガ、うつ病などに罹った人は、それさえ治ったら幸せになると考える。
 しかし、健康な人にとって身体が万全であり、耳が聞こえ目も見え口が利けるなどは当たり前のことだから何の幸せ感もない。そこに運命を左右する落とし穴がある。

 かつて車を運転中に事故に遇ったことが2度ある。一度目は駐車場から飛び出た車に当たられた。もう一つは、交差点で確認不十分で飛び出しタクシーと衝突した。
 この2つに共通していたのは自分の体調不全である。一度目は嫌な感じがしたのに止めなかった。二度目は気持ちもイライラしていた。
 考えてみれば、その時間にその場所を通らなければ事故には遇わなかった。事故は偶然ではなく吸い寄せられたように起きている。もし、一呼吸おいて行動したら運命は変わっていたであろう。

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 一見、根源的なことほど結果と繋がりにくい。しかし、身体が万全であり、心もゆったりとしていたなら必ず好い結果が生まれる。

 最近、呼吸や緩めの稽古に来られる方たちは健康になったり、元気な子供を授かったり、就職が決まったり等と好いことが続いている。
 これがFundamental な努力の成果であるとは思えにくい。しかし、間違いなくそのお蔭。呼吸ができなければ、食べ物が入らなければエネルギーは入らない。エネルギーなくして何も実現できない。そのエネルギーを高めたら結果は当然好くなる。
 

 赤ちゃんは呼吸と授乳と手足の運動と睡眠だけで機嫌よく笑顔で生活している。それが全ての支えになるから。大人も、この原点に立ち返り心をこめて呼吸をし感謝をしよう。

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2012年5月 8日 (火)

本当に信じる、とは

 歎異抄の第2条に、親鸞聖人が師である法然上人の教えに寄せた深い信仰の言葉がある。

 「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
 念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
 たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。」

 (意訳)
 「この親鸞は、「ただお念仏して、阿弥陀仏に救われていくのだ」という、法然上人のお言葉を信じている他には、ことさら別の方法ありません。
 お念仏は本当に浄土に往生する種になるのか、また地獄に落ちる行いなのか、私は全く知りません。
 たとえ法然上人に騙され、お念仏して地獄に落ちたとしても、私は決して後悔はいたしません。」

 人は教えの中身に到達しない限り、その教えが本当である否かは分からない。
信用とか信頼は何か事があれば崩れ去るものである。しかし、信仰とは何があっても揺らぐことはない境地である。
 

 ・信用の人は、少しやってみて出来ないと信じなくなり、去って行く。さらに自分のレベルで判断して多少の問題があれば背く。
・信頼の人は、よほど特別な問題がない限り、言われたことを黙々とやる。しかし、懐疑や自分の工夫は見られない。背くことはないが、任せきりである。
・信仰の人は、懐疑を抱くこともある。そして自分の工夫もする。しかし、教えに照らして真偽を断じ、教えから外れない。

 私は、西野先生の呼吸法の教えに対してどういう姿勢で臨めたか。
間違いなく信仰にあった。自分が苦しかった時に、心身ともに救われたことは間違いない。唯、感謝であり、感謝は永遠に変わらない。そして教えに対する思いも変わらない。

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                        (親鸞聖人像)

 

 
 
 

2012年4月26日 (木)

自然力の凄さ

 道場で気を受けて、自然分娩での安産を終えたCさん母子が1ヶ月ぶりに道場に来てくれました。母子ともに大変元気で、お母さんとは久しぶりに伸び伸びとした気の交流が行えました。

 その後の歓談で、自然力の素晴らしさが再認識されたのでお伝えします。
まず、助産所でお産婆さんから誉められたことが二つあったそうです。
 出産時に多くの妊婦は大きな声を出しがちですが、静かなお産で「アンタ偉いね。」と云われたとのことです。身体の緩めが役に立ったわけです。
 次に、お産に立ち会った家族の人も含めて、気の流し方や呼吸法が上手いので「アンタ何かやってたの?」と尋ねられたそうです。

 そして、楽に自然分娩ができたのは本当に良かったとも言います。
現代は病院で出産する人が多いのですが、中には出産予定日に産ませるために(病院が満杯という理由など)陣痛促進剤を使ったり、痛みを避けるために麻酔を使ったりするそうです。また、栄養剤などの点滴を受ける人も多いようです。
 

 実は、出産時の自然な体験は大切なことなのです。産道を通って産まれることは母子ともに、それなりの痛みがあります。しかし、それが刺激になって母乳が出始めたり、母乳の中に免疫物質がたくさん入ることは知られた事実です。
 さらに出産時に麻酔を打たれた人は、大人になって薬物(麻薬など)に依存する傾向が高いとのことです。難産の時に、カン子という道具を使って産まれた赤ちゃんは、将来に障害が起きやすいという話も聞きます。出産時の体験は身体に残るのです。

 赤ちゃんは産まれるとスグに呼吸を始めたり、お乳を吸い始めます。そしてお母さんからは見事な母乳が出てくるのです。
 これらは誰も教えたり、準備したりできるものではありません。正に自然のなす素晴らしい技でしょう。

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2012年4月23日 (月)

剣禅一如

 怒涛の幕末時代を見事に生き抜いた勝海舟は、「吾が生涯において本当に役に立ったのは、剣術の修行と禅の修業だけだ。」と語る。
 
 禅とは、心を安定させることによって宗教的な叡智に達しようとする修行法。迷いを断ち、感情を沈め、心を明らかにして真理を思惟し、体得する。
 禅宗は、6世紀初頭に開祖達磨大師によってインドから中国にに伝えられた。日本には奈良時代に伝えられたが、鎌倉時代に入って武士階層を中心に普及した。
 剣とは、人を斬る道具であり、剣の使い方が剣道である。そして当然ながら人を殺す手段。
一方は人が生きるための叡智を与える手段であり、他方は人を殺す手段である。この二つが一致する、とはどういう意味なのだろうか。

 宮本武蔵は、六十余度の勝負で一度も負けたことはなかった。彼は、自分がすべての勝負に勝ったのは武術を極めたからではなく、もって生まれた剣の資質、才能があったからだと述べている。
 それに加え、すさまじい鍛錬をも重ねていた。彼は神仏を尊ぶが、頼ろうとはしなかった。ただ敵を斬り殺すことに徹した「殺人剣」で、五十歳にしてようやく兵法の真髄を会得したとしている。その後、書画や彫刻などを行い、晩年になり禅の修業に励み、彼の剣は変わっていった。『五輪書』で、兵法の精神は真の「空」に到達することにあると、「剣禅一如」を説くようになった。

 同じ時代に、徳川将軍の剣術指南となった柳生宗矩は、すでに亡くなった父石舟斎から、柳生新陰流の無刀の技を伝授されていた。その上で、人を斬り殺す殺伐とした乱世の剣ではなく、剣が世を治め、心の修行となる和の剣法を求めた。それは剣が世を治め、心の修行にあるとする「活人剣」。
 精神的に彼を支えた臨済宗の沢庵禅師も禅と剣の書『不動智神妙録』で、無心の技を説いた。沢庵禅師の心底にあるのは、鎌倉時代の道元の禅。道元は、ただ座禅して己を見つめ、今この一瞬を「永遠の今」として生きろと説いた。

 禅と剣が共通するのは、禅が生死の深い哲学であると同様に、剣も一対一で命を賭けて立ち会う、生死の哲学である点である、といわれる。
  剣豪が到達した秘太刀に「剣禅一如」の境地がうかがえる。塚原朴伝の一の太刀、上泉伊勢守、柳生石舟斎の無刀取り、針ヶ谷夕雲の相抜け、山岡鉄舟の無刀流、…。

 禅は極楽往生を第一に説く他の仏教にくらべ、死よりも「今、ここに生きる」一瞬の生を大切にする。さらに、禅の修業は、単純で直截的で、克己的であり、戒律的な傾向が戦う精神とよく一致する。そのため禅は、生と死が日常である武士にとって非常に魅力があり、剣ばかりか武士道と深く結びついたとされる。

 以上を読まれて、剣禅一如の意味は納得されたでしょうか。
 実は私は、これらの通説は勝海舟の言葉とは少し異なるのではないか、と考えています。ご意見をお待ちします。

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